緒言

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所感

個人のWebサイトを設けた.1年以上やらねばと思いつつ先送りしてきたのを長期休暇に合わせて整備したのでようやくの感がある.個人のWebサイトが欲しくなったのは主に以下のような理由による:

  1. ポートフォリオとして:
    • 個人としていろいろな活動成果や制作物があるが,現状それらがいくつものプラットフォームに分散して存在しており,集積して参照しやすくしたいため.
  2. まな板として:
    • まとまった文章を推敲する機会・空間をテーマによらず恒に自身に課せるようにしておくため.
  3. 抵抗として:
    • 歯切れが良かったり共感を呼んだりする結論がただそのことのみを以て持て囃されやすい傾向などから一定の距離を確保するため.
  4. スナップショットとして:
    • 各時点の自分の思案が揮発して後から辿れなくなってしまわぬように書き留めておく必要を感じたため.

以降はそれぞれについてもう少し詳しく記載する.別に面白い話はしない.

ポートフォリオとしての個人サイト

2010年代初頭くらいまでは何かしら創作なりをして発信する人は個人サイトをもっていることが多く,それらが「ようこそn番目の迷える仔羊さん」などというカウンタのついた手打ちHTML感満載のトップページをもち,同好の士とリンクを張り合ったり,ハブとなる「リンク集」なるサイトに自身を登録していたのを,今20代半ば以上の人は覚えているだろう.挙げればキリがないほど多くのSNSがとっくに擡頭している昨今にあっては,個人サイトというのは随分と回帰的にも見える.表現にまつわる場として,SNSはたしかに莫大な恩恵をもたらした:

  1. 個人サイトを立てる手間や技術の障壁を超えられなかった人にも表現を公開する場を提供した.
  2. “見る専” だった人も,少なくとも機能上は従来からの表現者とも同等なアカウントという仕組みをもつようになった.
  3. 反響やクチコミが可視化されやすくなったりと,フィードバックが顕著になった.

一方で,SNSだけで何でも済むわけでは決してないということも再三明らかにしてきた:

  1. SNSが林立し,発信するときはSNSごとに重複したコンテンツを上げることになったりするし,見る側は同一の発信者を追うのにあらゆる媒体を見回ることになる.スケベ・ピクチャを公開する人物に対しては皆血眼になってその作品群を追うかもしれないが,それ以外のほとんどの場合,各個人は事実上各SNSに分散した一部分だけが各空間内の他者に見えていることになる.勿論そうした分散が文脈の切替えとして機能し表現に恩恵をもたらすケースも数多あるが,そうでないこともよくある.
  2. もしどれか1つのSNSだけに依拠するとしても,サービスの終了や極端な改悪,或いはユーザ数の減少という或る種のリスクを抱えることになる.
  3. 必ずしも民主的かつ国家的な実定法に基づかずに,SNSの非国家的なハウスルールにより表現に制限が加えられる場合がある.そのことが結果的に有意義にはたらいたと思えることも多いが,いずれとしても各個人のプレゼンスを左右するほどの寡占的なSNSに於いて民主的な正当化を経ずに事実上の制限が課されるのは権力循環として脆弱であるし,是非は全く自明ではない.

そんなわけで,(少なくとも)文脈を問わず自己に紐づいている表現については個人サイトという形で総覧できるようにしてもよいだろう,と考えるようになった.ただし,個人サイトも独自ドメインを登録したりしない限り当然ながらホスティングサービスに依存するのであり,その点ではまだ不完全なままになっている.

まな板としての個人サイト

論理的構成をもつべきまとまった文章をしたためられる機会・媒体は色々ある.note,Medium,Qiita,Zennといったサービスが利用できるし,親しい人たちと技術同人誌を出版し寄稿したりもできる.それは勿論結構なことだし,潜在的な読者とのマッチング可能性も高いだろう.しかし,テーマによらず記事を継続的に上げられる場所というものはなかなかない.何か書きたいことがあった場合,前述のような何らかのサービスの中から発表の場を選ぶと,サービスがもつ様々な恩恵と引き換えに,書けるテーマが事実上制約されたり,執筆道具としての制約を引き受けることになったりする.かなり具体的な例で言えば,数式の記述が簡潔には実現できなかったりすることなどがある.また,フィードバックによってプラットフォームに最適化していくがゆえに,知らず知らずの間に文に書き起こされなかった思案の取りこぼしが発生したりもするだろう.

こうしたことを念頭におき,「観念的にはまず個人サイトに公開するつもりで記事をしたためる.そして,そのうち特定サービスに向いていそうなものがあればそのサービス向けに再編すればよい」という態度をとり,あらゆる制作物をまず個人サイトという俎上に乗せる方がより網羅的・生産的になるかもしれない,と思うようになった.

抵抗としての個人サイト

そもそも,習慣的にまとまった文章をしたためたいと考えるようになったのが,短文のみ共有するサービスがむしろユーザを140字までの思案に留めさせるよう飼い慣らす作用を有するのではないかという疑念がとうとう巨大に膨れ上がってきたためでもある.似た違和感を多くの人がとっくに抱いているとは思うが,短文のみが投稿できるという性質はおそらく以下のような結果をもたらした:

  • 前提となる理解を共有する意識が払われることなく,端的な結論ばかりが書かれがちになった.
    • 特に,他者の発言を引用して “こいつこんなマヌケなこと言ってるぞ” と論う結論だけを記載し,なぜそれが “マヌケ” なのかまで還元して説明されることのないまま共有され,誰も明晰に事由を説明しないまま政局的状況だけができあがる,或いは意図を以て形成される,といった状況が生じた.
    • 結果的な結論だけが一人歩きし,“私は/お前はどちらの陣営か” という政局的・二分法的な世界観が跋扈した.とりわけ親○○だの反○○だのといったレッテルが掲げられ,そもそもそうしたクリスプに二分される主義の問題ではない場合がほとんどだということ自体が見過ごされた.
  • 見る側としても厖大な投稿を吟味する必要に迫られて疲弊し,“修辞的なそれっぽさ” が妥当性の判断基準を簒奪しやすくなった.
  • 心象だけを記載し,なぜその心象に至ったのだろうとひとまずは顧みたりはしないということを,手軽に投稿できるインターフェイスが促進した.そして,自分たちが抱く心象は何にしても妥当性があり共有すべきものであるという無意識的な自己欺瞞や,まず心象に基づく揺るがない結論を先に用意してそれを補強する論を後づけするという行動原理を加速したかもしれない.勿論情動というのは外界からの刺戟によって抱かされる “他者性を帯びたもの” でもあるけれども,そのうちどれが表明に足る意義のあるものか,他者と共有可能な表現方法はどんなかといった検討が全く不要だなどとは考えがたい.

こうした状況下で,あらゆることを短文で投稿すること自体が,気づかないうちに丁寧に前提を共有するという記述行為をないがしろにしたりして,この傾向にさらに加担してしまうことに繋がる,という可能性がよく頭をもたげるようになった.小さくともこうした傾向から一定程度距離を取れる空間を設けておくことが,自分自身,或いはささやかながら長期的には共同体全体にとっても意義のあることかもしれないと思う.

スナップショットとしての個人サイト

たしか半年ほど前だったと思うが,やはりTwitterで「若い頃,自分が考えていることというのはその後もずっと抱き続けるように思えたが,40代になった今,20代の頃の感覚やその時に考えていたことは全く頭に残っていない」という旨の発言を見かけた.これにはわずかながら危機感に近い感覚を催したのを覚えている.実際,既にその兆候らしきものがある.

例えば,Twitterという空間に触れるようになってほぼ丁度10年になるが,5, 6年以上前の自分の発言を見返す機会があると,今と同質の自分から発されたとは全く思えない文面がよくある.その多くは(随分と独善的だなあ)などと感じられたりするが,何か当時の自分なりに一貫した思案を経ているが修辞が稚拙だったのか,何か脊髄反射的な感覚を表明したのか,はたまた何か文脈があったり暗黙のうちに当時の世相から受けた影響を反映しているのか,などといったことについてすぐには伺い知れなかったりする.とにかく履歴というものは容易に揮発してしまう.もっと卑近な例で言えば,2週間前の夕食はどこで何を食べたのか,ということも意識的に記録していない限り既に判らないことがほとんどだ.また,そもそも皮肉なことに,自分は最初に挙げた「40代の今,20代の頃の感覚は全くない」云々の発言自体も既に見失っており,いつどのtweetを読んだのか出典を辿ることができない.

こうして,各時期に於ける自分の思案をできるだけ精緻に残しておくことで多少なりとも過去の自分が何を外界から吸収し何を反芻したのかをスナップショットとして或る程度意識的に残しておく必要性を感じるようになった.かつてはTwitterがそういった役割を担うだろうと素朴に思っていたこともあったが,いざ残ったものを見ても当時醸成されていた文脈や空気感まで理解するのはきっと難があるだろう.また,まとまった文章を書く機会は色々あるが,現状そのほとんどは学術や技術の部類であって,自身が何を感じそれに起因し何に考えを巡らせていたかということについては多くが取りこぼされてしまう.

無論,記録するということに或る種の “危険性” が伴うことは既に多くの人が理解するところでもある.やはり言ってみれば「かつてこいつはこんなマヌケなことを言っていたぞ」という誹りの可能性を喜んで残すという側面ももつためだ.とりわけ昨今(違法といえるかにかかわらず)不道徳なものと看なされる言動が見出された場合は非難が苛烈を極め,ほとんど私刑的に該当者を追放するような動きを共同体が見せることもよくある.たしかに実効性のために或る程度アファーマティヴでなければならないと要請されている側面はあるが,それでも自分は本当に人間が共生する最終的な方法としてそれが望ましいとは思えていない.端的に言えば,“ブラックリストに載った人から順に切り捨てていく” のではなく,どんなに “マヌケ” な思考をしていた人物がいたとしてもその人物が過去を省みた後やはり一員として過ごしていくのだという意識が共有されることが成熟した共同体の姿だと信じたい.だからこそ,ありうる誹りの影に萎縮して何も言わないことを選び現状に無条件に加担してしまうよりは,精緻に記載しておいて適宜振り返って棚卸をし,必要に応じて補正していくことを選びたいと思う.

まとめ

そんなわけで個人サイトを github.io にひとまず設けた.どの程度習慣的な使用が継続できるかわからないが,設置趣旨のとおり,種々のSNSに公開した過去の制作物なども適宜掲載すると思う.