岡本太郎しか勝たん

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記事 所感 岡本太郎

近年の若者には「推し」がいたりする.「推し」という語が少なくとも原義的には 自身-対象 ではなく 自身-対象-対象を勧められる第三者 という図式を有している点は2020年代の各個人と社会との関係の在り方を写すようで面白いが,まあその話自体に立ち入るのは置いておくとして,20代も終了目前で別に若くもない筆者にもその意味の「推し」の1人くらいはいる.岡本太郎だ.岡本太郎については既に多くの人が熱弁しているけれど,このベラボーな巨人について自らの言葉で書き留めておかねばならぬという欲を私も抑えがたい.だから「後から見返したら恥ずかしいだろう」などという卑しい懸念を唾棄して書くのである.

岡本太郎自体はほとんどの方がご存知だろう.「芸術は爆発だ!」などのやや奇抜な言動で知られ,“奔放なエキセントリックおじさん” のイメージが広く共有されているかもしれない.だが,そうしたイメージは全く一面的である上に比較的壮年期に構築されたもので,随分実態と隔たっている.

まだ大半の日本人が海外渡航など到底経験しなかったであろう1930年代,太郎は20代をパリで過ごし,抽象画とシュルレアリスムという前衛芸術運動の最前線に身を投じた.また,“絵を描くには人間自体を知らなければならない” などとの考えに至ってマルセル・モースに師事し民族学に没頭したり,ジョルジュ・バタイユと出逢い秘密結社「無頭人(アセファル)」に加わろうとしたりといったことまでする.身も蓋もない言い方をすれば,手広いインテリである.

その後,ナチスドイツのフランス侵攻に追い立てられるように帰国し徴兵により従軍,戦後パリには戻らず,自身の作品ごと青山のアトリエが塵芥に帰し焼け野原となった日本でゼロから芸術運動を再出発させる.そうした活動がその後最大級に結晶するのが大阪万博である.

大阪万博

大阪は吹田に,それは立っている.1970年の大阪万博のテーマ展示,太陽の塔である.万博の会期後も今日に至るまで半世紀,のどかな万博記念公園の中で明らかな異質感を放ち周囲を睥睨している高さ70mの巨大なオブジェだ.今日,この太陽の塔も岡本太郎の手による制作物としてよく知られている.だが,もともとこんなドデカい塔が建つことは万博の計画になく,或る意味で “太郎が突然つくった” ものだった.

そもそも万博とは何だろうか.国際博覧会条約の第一章第一条1には以下のような記述がある:

博覧会とは、名称のいかんを問わず、公衆の教育を主たる目的とする催しであって、文明の必要とするものに応ずるために人類が利用することのできる手段又は人類の活動の一若しくは二以上の部門において達成された進歩若しくはそれらの部門における将来の展望を示すものをいう。

–– 外務省: 国際博覧会(万博): 「国際博覧会条約」抜粋

そう,万博とは「進歩若しくは」「将来の展望」に関して「公衆の教育を主たる目的とする催し」なのである.極端な例を挙げれば,1889年のパリ万博では「殖民地館」が置かれ,一方には未開人を,他方には教育が施され準文明人となった元未開人を,それぞれ “実物” を連れてきて並べて展示し,「近代教育というものは人々を幸福にしますよ」という主張を示唆させたことがある.やや穿った見方をすれば,各開催時の情勢に基づく様々な思惑を差し引いても,万博とは元来「科学技術の発展は人々を幸福にする」といった或る種のプロパガンダを伝導する性質のものであったと言ってもいい.

大阪万博は,著しい戦後復興と高度経済成長を背景にまだ人々が純真に共有できた「今日よりも明日が,明日よりも明後日がきっと良くなる」という空気感と,万博の進歩主義的な世界観とがカップリングした栄華だった.入場者数記録自体は2010年の上海万博で7309万人に塗り替えられるものの,6422万人と延べ人数で国民の2人に1人以上が来場するような熱狂を見せた万博は大阪万博の後にも先にもない.その熱狂的な万博の中心に聳え立っていたのが太陽の塔である.来場者の目には真っ先にこの異形の建築が飛び込んできて,輝かしい万博のイコンとして焼きついたことだろう.だが,他でもないこの大阪万博を象徴する塔こそ,万博史上おそらく唯一,進歩主義の喧伝に反旗を翻したレジスタンスなのである.

進歩と調和

大阪万博のテーマは「人類の進歩と調和」だった.二次大戦への反省や,目下継続中のベトナム戦争などに影響を受けてか,当初は「調和」の比重をより尊重しようと議論が重ねられ,「人類の調和と進歩」が有力だったらしいが,最終的に「進歩と調和」の方が語感が良いなどの体裁的理由で変わってしまったらしい.岡本太郎のもとには,その「人類の進歩と調和」のテーマに基づいて会場中央につくるテーマ館をプロデュースしてほしいという依頼がきた.

端的に言えば,太郎はこの「人類の進歩と調和」という「公衆の教育」のお題目に反発を覚える.戦時下に日本に引き揚げて従軍せざるを得なかった経験が影を落としてか,もともと太郎はいわば反権力的な鋭い言動で知られ,国家規模の一大プロジェクトでプロデューサを任命されるというのはかなり “お門違い” なことだった1.実際当初断ったらしいが,再三に亘って食い下がられるうちに,周囲の人間に反対されつつも最終的に引き受けることを決意したようだ.一貫して反体制的態度を表明してきた自身が国家的プロジェクトを担うということについては葛藤を抱いたに違いないが,それでも太郎は「人類の進歩と調和」というテーマを或る種アイロニーのように巧みに利用し,一段乗り越えたところへと昇華しようとした.——人類は進歩なんてしない,人間の世界認識の方法はラスコーの壁画を描いていた頃や縄文土器をつくっていた頃と一切変わらない.調和なんてくそ喰らえだ,互いに3割我慢しておけば事もなしと妥協を重ね表面的に取り繕った調和など卑しい,真の調和とは全く異質な二者がぶつかって双方が花開く,そういうものだ——.そして,進歩主義とは対極の太陽の塔という巨大オブジェを造り上げ,モダニズム極まる丹下健三らによる大屋根にボカンとぶつけて穴をあけ調和を体現した.また,60年代当時は安保闘争で興隆した反体制的な風潮の煽りを受けてか「反博」を叫ぶ者たちがよく現れたが,太郎は「何が反博だ,一番の反博は太陽の塔だ」と切り捨てたらしい.たいへんな一貫性だ.太陽の塔というテーマ展示は,言ってみれば万博史の中でほぼ唯一万博的プロパガンダを内側から瓦解させようとしたゲリラライブだったのだ.

現実解としての太陽の塔

岡本太郎という人物は,そのステレオタイプ的な像とは随分異なり,かなり明晰な言葉で語る人である.とりわけ万博の前後にも,テーマ展示に懸けた構想や思案について盛んに記事を著して美術誌や新聞などに公表している.また,テーマ展示の構想にあたっては種々のスケッチが残されている.そうした記事やスケッチからは,太郎が単に思いつくままの形状でボカンとオブジェをつくったわけではなく,万博に於ける実際的な制約や効果も勘案に入れて太陽の塔を設計していたことが窺える.

まず,太陽の塔を含めテーマ展示全体は,単にシンボルゾーンを象徴する表現として機能するだけでなく,入場してきた人を滞留させずに大屋根に導く機構としての現実的な解決策も兼ねて設計されている.シンボルとして目立つよう機能しつつ来場者を滞留させないという相反する要請を,太陽の塔と大屋根は巧みに両立させているのである.

また,会場が進歩主義一色となるであろうことはたやすく予想できたので,そうした近代化とまだ縁のない地域から来た人にも肩身の狭い思いをさせないようなテーマ展示を中央に聳え立たせ,全員が胸を張って主役となれる祭にしたいと考えたようだ.或いは,長いタイムスパンを鑑みて「今やらなければ今後ずっと進歩主義的なものばかりが擡頭していき世界全体の在り方も均質化していくであろうことは目に見えている.だから今これをやるのだ」という旨のことも語っている.

今度のEXPO’70は西欧圏以外でひらかれる最初の万国博だ。世界がはじめて世界としてひらかれる。私はアイロニカルに、「第一回万国博」だと言っているのだが、そういう意気込みが必要である。

これまでの万国博は、科学技術の進歩をたたえ、工業力を誇示してきた。当然、欧米の先進諸国が主役を演じた。今度の大阪でも、アメリカ館やソビエト館は宇宙開発やエレクトロニクスなど、科学技術の粋をうち出す。日本も負けずにやるだろう。すばらしい見ものである。また会場全体が実験的な建築のコンクールを展開するに違いない。ケンランたる光景。楽しい。

だがそういう華やかさのうしろに、無言だが巨大な世界のひろがりがあるのを知らなくてはならないのだ。いわゆる後進地域。新しく独立し、歩みはじめたばかりのアジア・アフリカ諸国。近代工業の面では何も持たない。そんな国の人々が会場に来て、何か肩身がせまい思いをするような、富や科学工業の誇りでは卑しい。逆に彼らの存在感をふくれあがらせ、祭りにとけ込ませる、人間的な誇りの場でなければならない。

–– 『芸術新潮1968・6』(1968)『岡本太郎と太陽の塔』(2018)2

太郎は “ただ単に表現者としての欲求のままに制作した” だけでなく,ありとあらゆる人間,ないし人間存在への博愛・贈与としてあの塔を生んだに違いないのである.

革命未遂

だが,華々しい成功裡に終幕した大阪万博において太郎のねらいが本当に達成されたかというと,そうではない.たしかに太陽の塔は圧倒的な大阪万博の象徴として人々の心に残されたし,太郎も知識人ではなく大衆に表現が響いたことに一定の達成感を抱いたであろうことが万博後の筆致から伺える.しかし,もともとの意図するところはすっかり素通りされてしまった.SFを顕現させたようなパビリオンに熱狂して押し寄せ,輝かしい21世紀がやってきて貧困や紛争といった20世紀が抱えた課題は皆科学技術によって解決されるのだという世界観を何も無理なくナイーブに信奉できた1970年当時の人々には,「人類は進歩なんてしていない」という太郎の意図は全く理解できなかったに違いない.結局,テーマ展示の趣旨はほとんど受け取られず,太陽の塔の “ポップなガワ” の方だけ一人歩きして大ウケしてしまったのであった.

しかし,人々は理解できないながらも太陽の塔を壊せなかった.会期終了後,万博を訪れた人々から太陽の塔の保存を請願する投書が数多く寄せられたという.一時的な建築物とされながらも技術的には長期保存に堪える設計を設計者が施していたこともあって,太陽の塔は実際に永久保存されることが決まり,今も万博記念公園にほとんどそのまま立っている.技術の粋を集めたパビリオン群は大半が一時的なものとして解体されてしまったのに,太陽の塔に限って残されたというのはなんとも逆説的だ.

万博以後の太郎は,“エキセントリックおじさん” の様相でバラエティ番組に出演したりと,やや身を安売りしたような様相のことをする.私も出演時の様子の断片を目にしたことがあるが,登場時に「なんだこれは!」と言ってウケを取るようないささか芸人的な振舞いもしていたようだ3.今日の「芸術は爆発だ!」なステレオタイプ的岡本太郎表象を主に形づくったのも,おそらくこの頃のメディア露出の影響が大きいだろう.どうしてこんな行動に出たのだろうか.

私は,こうした “身売り的露出” は,根幹を要約してしまえば “結局ガワしか伝わらないのだ” という諦念と,それでも喪失しなかった “遍く人間存在を激励せねばならぬという使命感” とに突き動かされて出てきた表現手段なのではないかと想像する.テーマ展示構想時から万博以後に至るまで,太郎は「何かとせせこましくなりがちで優等生に映るのを目指さねば気が済まない文化的傾向をもつ日本人が,もっと腹の底から全霊に生きるように鼓舞・激励するものをつくりたい」という旨のことを考えしきりに記事として発表していた.

私はとりわけ日本文化、人間像について考える。明治百年、日本はみごとに近代化をなしとげ、市場かつてない急速な経済成長を誇っている。日本人は勤勉で、まじめで、根性があると外国人はもちろん、日本人自身も思っている。だが、そのくせどうも人間的魅力が開かない。…(中略)… 西欧に追いつこう、遅れをとるまいと焦り、あまりに外を意識したために、自分自身の方が不在になっているのだ。科学や技術の面で先進世界に学ぼうとしたのは当然だとしても、なぜ道徳感や生き方、美の基準まで、向こうまかせにしてしまったのか。

だから、テーマ・プロデューサーを引き受けたとき、私は「ベラボーなもの」をつくると宣言したのだ。…(中略)… 無難に、バランスをとって、右を見たり左を見たり、気にしてお互いにすくみあっている。これでは魅力は開かない。

ベラボーさは今までの日本では軽蔑され、ほとんど発顕されなかった。だからこそ、あえて公言した。日本人一般のただふたつの価値基準である西欧的近代主義と、その裏返しの伝統主義、それの両方を蹴とばし、《太陽の塔》を中心にベラボーなスペースを実現した。集まって来た人が「なんだこれは」、と驚き呆れながら、ついつい嬉しくなってにっこりしてしまうようでありたい。

もしこのような投企が、日本人の心の奥底に秘められていたヴァイタリティーをよびさまし、1970年以降の日本の人間像の中に、たとえわずかなキザシでも、平気で己れを開き、野放図にふくらむ精神が現れてきたら……私の万国博への賭けは大成功である。

–– 『日本万国博 建築・造形』(1971)『岡本太郎と太陽の塔』(2018)2

さらには,大衆的な支持を広く得てしまったことで,太郎は実質的に権威のような地位を確立してしまう.また,かねてより西洋の美学にもその反動のように発達した日本の伝統的美学にも依らない美学を確立せねばならぬなどと熱心に主張したがゆえに “美術界の保守的価値観” からみて疎まれがちだった太郎が大衆的支持を得てしまったために美術界からは “立ち向かいようのないものとして無視される” 傾向も現れ,実際岡本太郎を語ること自体が或る種のタブーだと認識されていた時期があったらしい.自身が実質的に権威と化してしまった上に元来の挑むべき権威は暖簾に腕押しという八方塞がりの状態に陥った太郎が,こうした事態の打開には自らの権威性の解体が必要だと考えるのはほとんど必然のようなものだったかもしれない4

太郎は,“ガワしか伝わらなかった” 結果自身を権威にしてしまった万博の経験から,自ら “エキセントリックおじさん” になることでしか広く日本人を鼓舞することはできない,だからやらねばならないのだ,と決意し決行したのではないだろうか.

岡本敏子

ところで,岡本太郎とは実は1人の人間ではない.岡本太郎の形成には,太郎だけでなく,太郎の秘書であり事実上の妻でもあった岡本敏子が大きく寄与している.太郎は必ずしも原稿を直接書いたのではなく,口頭で発話し敏子がそれを口述筆記で書き留めるという形でしたためたりしていたらしい.

1996年に太郎が他界した後も,敏子は太郎の活動の記録を出版したり,太郎が半世紀近く使ったアトリエを岡本太郎記念館として公開したりと,熱心に広報した.太郎の死後,人々の間で太郎の存在は過去の人物としてかなり風化しつつあったが,敏子という稀代のプロデューサーの手によって瞬く間に蘇った,とも言えるようである.

おもしろいことに,太郎没後に敏子が残した著作をみると,太郎のものそっくりの文体である.一文,一区切りが短く,力強い.それでいて知的なギラつきを湛えている.勿論もともと或る程度似た特性だからこそ惹かれあったり,共に過ごすうちに影響しあったことも十分ありそうだけれども,口述筆記を行なった敏子の文体がもともと太郎の著作に色濃く反映されていたという側面を見てとってもよさそうだ.

今日の我々が知る岡本太郎の姿には,多分に岡本敏子の活動が貢献しているのである.

青春太郎

前述の通り太郎はかなり多くの著作を残しており,今日でも重版されている著書も多い.おそらくよく知られているのは『今日の芸術』だろう.かなり平易な言葉遣いで読者を諭すような書である.だが,これはどちらかといえば襟元を正してネクタイをつけたような太郎の側面で,個人的にはもっと推したい本がある.それが終戦からまだ年の浅い1953年,太郎42歳の著作『青春ピカソ』だ.口をしばって真っすぐこちらを睨む太郎の大きな顔写真とともに「あがめてたんじゃ、超えられない。」というフレーズが載った帯をつけて売られている.本書を20文字以下に要約せよと言われたらこれ以上なく適切な一言である.内容は簡単に言えば「ピカソは輝かしい,だが彼を神棚に祀るのではなく乗り越えなければならない.ピカソは徹底した自己否定の上に表現を成し遂げるので克服は容易なことではないが,乗り越えると決意しなければ前進はない」というものだ.ピカソの生涯の振り返りと,太郎のこうした決意表明とも言える主張が,情熱と理知が巧みに平衡した筆致で記述されている5

ピカソに挑み、のり超えることがわれわれの直面する課題である。

この言葉は確かにセンセーショナルであり、またきわめて不逞な響きを持っているであろう。しかし微塵も不遜ではなく、またこと新しく提言されるべき問題でもない。…(中略)…

「ピカソへの挑戦」という言葉が今さら意表に出でる感があるとすれば、そこにこそ実は今日の芸術の本質的な盲点があるはずだ。

…(中略)…

われわれにとってもっとも偉大であり、太陽のごとき存在であればこそ、かえって神棚からひきずり下ろし、堂々と挑まなければならないのだ。…(中略)…

私は繰り返して言う。ピカソが今日われわれをゆり動かすもっとも巨大な存在であり、その一挙一動が直ちに、歓喜・絶望・不安である。ならばこそ、あえて彼に挑み否定し去らなければならないのだ。

これは単に個人としてのピカソに対する意味ではもちろんない。伝説的な存在としてのピカソ、その意義、そしてそれが与えている歴史的振幅にメスを入れるのである。だからそれは直接に芸術の本質に関わる営みである。

–– 『青春ピカソ』(1953)

正視しなければならない絶望的な障壁がある。それはピカソ芸術を支える二つの偉大な要素である。第一は彼の稀代の才能、超人的なうまさであり、第二には彼が新しい世代に否定されるのを待つまでもなく、何人よりもラジカルに己れ自身を否定し、革命的に創造しつづけて、常に芸術の先頭を進んでいるアヴァンギャルドだということだ。…(中略)…

さてこのピカソの偉大さに対決し、これをのり超えようと決意することは、かくいう私自身にも、眼前に立ちふさがった巨大な山に挑む絶望感を感じさせる。しかし、だからといって引っ込んでしまっては駄目なのだ。この巨峰を前に若老どもが謙虚に己れの分際を悟り、諦めてしまう、この態度こそ私には納得出来ない。

いかなる峻嶮も、のり超えることを決意し、踏み出すならば、必ずその山プラス何ものかであるはずだ。特に芸術の場合、目的達成いかんは実は問題ではない。決意と実践、つまりのり超えつつあるという、そのことだけが本質に関わって来るのだ。

–– 『青春ピカソ』(1953)

私は「戦後間もない頃にこんなギラギラとして若々しく前途洋々の40代のおじさんがいたのか,そして十数年後にあの大阪万博のテーマ展示を築いたのか,それにひきかえ20年近く下の自分がここでくたびれていてどうするのだ」と背筋が伸びた気がした.太郎がこれだけ明晰な言葉で語るのに最終的に言葉にならないような作品を「どうだ,いいだろう」などとだけ言ってボカンと出してくるのも大いにシビれる.

だが,我々だって太郎をあがめてたんじゃ超えられない.太郎がピカソを「神棚からひきずり下ろし」て克服せねばならぬと決意したように,きっと我々にも太郎を超えていく決意がなければならないのだ.『自分の中に毒を持て』などにはじまり,近年は太郎の著作がなんだか “自己啓発書” ないし “聖典” めいた扱われ方をしがちである.造形作家が太郎の言葉を組み込んで造りましたと言う立体造形やインスタレーションなどを見ても,やはり借り物という感じがしてどうしても上っ面だけの様相は否めない.結果的に太郎から出てきた言葉ばかり尊んで真言のように唱えても仕方がないのだろうと思う.『青春ピカソ』を著した1950年代当初の太郎がそんな主張を含意していたわけでは到底ないだろうが,今の我々の手元には太郎から「私を崇めず超えてゆきなさい」という明瞭なメッセージが届けられている.

太郎と現代

翻って現代を見ると,依然として人々は進歩史観という強靭なミームをなんだかんだ持ち上げている.たしかに今でこそ「ていねいな暮らし」だとかいった標語がヌルッと登場し,身の回り・暮らしの中のありふれたもののありがたさなどとミクロなスケールに意義を見出そうとする風潮もあるが,それは陰りの現れた経済成長,来なかった輝かしい21世紀の裏返しとしての「私たち別に発展しなくてもよかったよね」という認知的不協和からきているようでもあり,なんだか見すぼらしい.太郎が異様なのは,そうした酸っぱい葡萄的な正当化など経ずに「進歩」観を観念したところにある.

「調和」観についても,今の我々の共同体はまず形だけ調和を取り繕うので精一杯といった様子だ.ストレスのない他者との意思疎通を志向するあまりに,裏返しの「コミュ障」「心理的安全性」「有害な人」「キャラ疲れ」といった概念が席巻している6.「互いに3割妥協して頭下げ合うような表面的な調和など卑しい,本当の調和とは全く異質な二者がボカッとぶつかり合って双方が花ひらくことだ」という岡本太郎の「調和」観は,互いに異質な他者への根本での信頼がないと成り立たないのかもしれない.実際,太郎の言動は「この地上にいる全ての人間の裡には瞬間瞬間に外界とインタラクトし全霊で生きる力が潜んでいて,あとはそれをいかに創造的に発揮するかだけなのだ」という深い信頼に突き動かされているように見える.

こんな具合だから,半世紀前にとっくに「先進国に『仲間に入れてやってもいいな』と思わせようとする卑しい機嫌取りをやっても仕方ない」「西洋の美学でもその反動で発達した和でもない泥にまみれた基盤を打ち立てねばならぬ」という企てが結晶した万博があったというのに我々は未だその主張を受け取りさえできずにこうなのか,という無力感も湧いてくる.だが,太郎は過去ではない.まして太陽の塔はなおさら過去の遺物ではない.太郎がやれなかった革命を,未遂の大阪万博が残した宿題を,我々がまた各々の形で挑んでいくだけである.

宿命

良くも悪くも,太郎は20世紀を生きた人間だった.現代のように極端に肥大する需要に対して追いつかない社会的リソースゆえに “パイの奪い合い” を意識したりする必要もあまりなかったし,あらゆる人間がネットワークに接続して匿名で交流しその中で日常的に諍いを生じることもなかったし,ニュースサイトのコメント欄で極端に独善的な思想を開陳する人を目にする機会もなかった.また,既成概念の解体を企図するような姿勢も,あらゆる言動が切り取られてSNSで拡散されたりするような今日の時勢なら成立しなかったかもしれない.1949年の法隆寺修復中の火災を指して記した「法隆寺は焼けてけっこう」などはその修辞に至った軌跡や文脈が顧みられず悪評が立ちそうで危なっかしい(当時も物議を醸した).

『法隆寺は焼けてけっこう』――嘆いたって、はじまらないのです。今さら焼けてしまったことを嘆いたり、それをみんなが嘆かないってことをまた嘆いたりするよりも、もっと緊急で、本質的な問題があるはずです。

自分が法隆寺になればよいのです。

少し脱線すると,太郎の来し方を鑑みて,この言葉には字面以上の重みがあると直観する.太郎は30代半ばでそれまでの作品のほとんど全てを戦火に焼かれている.その経験は間違いなく深い抉り跡として太郎の裡に刻まれたに違いないが,太郎はそれを「作品の存在が持続することではなく,精神性が持続し更新され続け体現する人間がいるということがもっと緊急で本質的なのだ」などと昇華したのではないだろうか.のちの大阪万博の際にも,プロジェクトの関係者に「もしも太陽の塔が建てられないということになったら,私が太陽の塔になって屋根の下に立つ」などという旨のことを言っていたそうだ.ともかく,結果的に出てきたセンセーショナルな短文それ自体が背景の意図を全て含意するはずは全くないのだ.

話を戻すと,兎にも角にも,太郎が置かれた世界は私たちのそれとは決定的に違っていた.表現に関する前提も色々と違うはずだ.20世紀前半の人々にとって,おそらく今の我々からは想像できないほど抽象画やシュルレアリスムといったものは “鮮烈で生々しいもの” だったのだろうが,今日 “岡本太郎的なもの” をはじめとするかつての前衛表現は第一印象として “ああ,そういうカテゴリのやつね” 程度の位置づけに収まりやすく,しかも鮮烈さというよりはやや或る種のポップさをもって目に映るきらいがある7.人間の不変の本質を見つめ続けようとしたようにも見える岡本太郎ですら或る種の時代性の産物であることは案外否定できず,少なくとも形而下的な面に於いて私たちが岡本太郎そのものになる必要があるわけでは全くないのだ.実際のところ,太郎も時代性というものを意識しているととれる文を記している:

私はピカソ以上に巧みな作品を仕上げ得るかどうかという、そんなことが問題ではないことを繰り返して主張する。歴史的・内容的に、ピカソをひき下ろすだけの仕事をすればよいのだ。すでにのり超えていなければ永遠にのり超えることはできない。要は己れの置かれた時代と新しい芸術の宿命を正しく洞察し、そしてそれに殉ずる決意である。

–– 『青春ピカソ』(1953)

2020年代に置かれた我々にとって「芸術の宿命」となる時代性があるとしたら,それは何だろう? 美術史や現代の表現のシーンなどにもほとほと疎い私があらゆるものを取りこぼしながらも敢えて無条件に書くことに意義があると信ずるが,それは主に以下だろうと思う:

  1. あらゆる人間が常時接続されている環境
  2. 古典的戦争の脅威が未だ現役であるという事態
  3. 依然として成熟していないリスクコミュニケーション
  4. 機械生成という表現手段の擡頭

既に誰の目にも明らかになっているのは,あらゆる人間が常時ネットワークに接続され情報を受信・発信するようになった環境だ.多分に洩れず私自身もかつては「皆が見る人だけに留まることをやめ,何か言ったり描き出したりするようになり,あらゆる創造の発露が円滑かつ文脈を伴って共有されると面白いことが起きるに違いない.そしてそれがさらに見る者を刺激するのだ」などと純朴に考えていた.たしかに面白いことは起きすぎるくらいに起きたが,一方で意外なところから種々の副作用が湧いてきたのも既に誰もがよく知っているところだ.端的に言えば,他者があまりにも接近して溢れすぎたのである.世界中どこにいるどんな人間とも実名・匿名を問わず気楽に意思疎通が取れるようになった結果,かえって “異質な二者がぶつかる” ことの負担が上がってしまった.かつては伝達する手段・頻度などに制約があるからこそ皆が自身の手による描写・記述をよく推敲し編集に執念を燃やしたが,その制約が取り払われたことで無編集の独善的な押しつけで飽和してしまった.隣人が自分よりも受益している様子が目に入りやすくなった結果「どうして私・私たちはこの恩恵にあずかれていないのだ」という “被害者感” を肥大化させた.こうした態度が大域的にも共同体を支配し,ついにはイデオロギー的対立の先鋭化や自国優先主義の擡頭といった規模にまで至っているとさえ言えるかもしれない.人々の独善性の肥大化を裏返すように,“要らんことを言わなければ事もなし” というコミュニケーションの在り方が持ち上げられる傾向も継続したままだ.このような背景にあっては,岡本太郎の “異質な二者と正面からぶつかりあって双方が花ひらく” という「調和」観は,むしろ以前にも増して実効性をもたなくなってしまったかのようだ.

他者存在の肥大化によって強化されたものには「皆が恥じずに受益の話ばかりする」という傾向もある.或いは裏返しとして「皆なんとしても他人より損をしたくないと思っている」と言ってもいい.人間の営為を大きくgiveとtakeに分けたとき,あらゆる人がtakeの話ばかりしてgiveの話をしていないのである.なぜか? それはおそらく,そもそも “giveの話よりもtakeの話の方がわかりやすい” ためだ.誰一人としてtakeから完全には無縁になれない以上,takeの話は誰にでも通じる.giveの話は最終成果になるまでわかりやすい形になりにくい.「こういうものを創らねばならないと思う」という話くらいはできても,制作中の経過を明瞭に出せる場合は限られている.加えて,望まずとも他者の様子が見えるようになった結果,いきなり既に世界水準にある無数の他者の活動が嫌でも目に入り,自らも手を動かして世に問うてみようという意志を皆削がれやすくなってしまっている.こうした傾向はSNSのシェア機能によっても増幅されているに違いない.

結局,“異質な二者と正面からぶつかりあって双方が花ひらく” という「調和」観は実践されず “要らんことを言わなければうまくいくという処世術的なもの” ばかりが持て囃されるのは,現在の我々個々人が「こうした方がいいんじゃないか」と公益のために徹底的に意見や理論をぶつけ合えるような内発的使命感も,他者に対する根柢での相互信頼も,辛抱強く話に耳を傾ける度量も持ちあわせていない,自分の受益を至上命題とする存在へと追いやられていることの裏返しなのかもしれない.しかも,このうち “公益のための使命感” はむしろ(いささか進歩史観的な表現になるが)“退行した” と言ってもよいかもしれない.60年代や70年代にベトナム戦争下の悲惨なゲリラ戦に対する抗議デモをはじめとした運動・潮流が(直接的には利害関係が薄いどころか冷戦の陣営上は相反している国に属する個々人の手によっても)興隆したのは,その隅々までの是非は別の問題として置いておくとしても,少なくとも “打算抜きの使命感” に突き動かされたからに他ならない.こうした使命感は,こと日本に於いては長い不況も相まって大きく褪色してしまったところがある.そんな中で,2022年にはロシア連邦によるウクライナ侵攻という大事件が国家間の古典的戦争が未だ現役である事実を突きつけ,(これが契機となってしまうことは全く不愉快ながら)再び我々の “この世界にどうあって欲しいかという使命感” が試されている.

科学技術が社会の在り方を変革したことには “ソフト” だけでなく “ハード” に於ける負の要素もある.勿論古くから公害に見舞われたりといった事態も起きたが,さらに一段階困難な課題が肥大化した.それは,時間的にも空間的にも,或いは取り返しがつかないやもしれぬ甚大な影響を及ぼす技術について,専門家と一般市民とが如何に対話し合意を形成していくかということだ.既にひと昔前の話として消費されてしまいつつあるが,いわゆる東日本大震災が我々のリスクコミュニケーションの未熟さを否応なく白日の下に晒してしまったことはやはり否定しがたい.一般市民がただの直感から拒否反応を示して専門家の声に耳を傾けず技術政策を親○○・反〇〇などといった政局の問題へと矮小化してしまっては不毛だし,専門家も「一般市民は何も知らないくせに過度な懸念ばかり叫ぶ,黙って俺らに任せておけばいいんだ」などという独善性を振りかざしていては事態が進展しない.結局,対話のための度量と使命感と相互信頼はいつでも足りていないのだ.

表現に於いていよいよ実践的な水準で発達し始めた統計的機械学習による生成の手段も,我々を別の側から動揺せしめている要素だろう.周知の通り,“人間の創造性の賜物” かのように見えていた絵画表現が,実際には案外多くの部分に於いて “せいぜい訓練標本から容易に再現できる” 部品からなっているととれる結果を提示したのである.私自身「いつかはそうした時代が来るだろう」というくらいの想定ではあったが,いざ実際になかなか精度の良い生成が可能になってみるとこうもいささかのぐらつきを催すものかと思う.

だが,私はこれを “人間の創造性というものは意外に大したことがなかった” と捉える必要など全くない,と敢えて考える.むしろ,こうした環境の変化は,これまで人間が暗黙のうちに抱きやすかった「何か特別なことを実現する腕前を有していることが人間を創造的たらしめている」という思い込みから目覚めさせる契機なのではないか,とさえ思う.これまで人間は腕前とか技巧といった “芸当” の部分を創造性の発露だと暗に前提してしまっていたが,より人間を人間たらしめているのは,「何を表現しなければならないと感じるか」という腕を動かす原動力の方なのではないか,ということだ.窮極的に言えば,高度な技巧を凝らさねば実現し得ない表現が観る者に情動を惹起させるのは,きっとその技巧自体ではなく,そうまで腕を駆使してでも表現せねばならぬという表現者の決意の方なのだ.

こうして導き出されるのは,我々が2020年代の宿命に呼応するには,この世界にどうあってほしいかと願う使命感,より良い合意へ至る対話のための度量と相互信頼,そしてこれらを共同体で広く共有できるよう努めることが必然的に関わってくるのだろう,ということだ.ここでまた気づくことがある: なんだ,どれも太郎が前世紀にやっていたことじゃないか––.そう,世相や環境が激変したように見えても,結果的に必要な姿勢は今世紀も未だ前世紀と大きく変わっていないのかもしれない.太郎の抱いた観念に通底する通時的強度にはあらためて感嘆するほかないが,とはいえ太郎の前世紀は前述の通り “革命未遂” だったのであり,まだ我々に課題が託されたままなのであった.だから,公益への使命感と,対話・相互激励への執念と,そのための表現ないし社会実践にどんなに小さくとも身を投じられる決意があれば,それは未遂に斃れたままの太郎をさえ乗り越えて行く道程なのである.

使命感には再現性がない.強く願う契機が必要だ.問題の前線に身を投じて,腹の底から課題に感じなければならないのだ.そして表現するのである.文にしても絵画にしても,側から見ると得体の知れない作者の情熱と理知とが結実した表現は唯一無二の異様な魅力を放っているし,私も自らの裡に使命感を抱えてそうあり続けたいと思う.別にツヤっとして毛並みが良い必要はない.

岡本太郎しか勝たん,だが太郎は我々に「私をのり超えてゆきなさい」と挑発している.

番外編

アナロジー,又の名をこじつけ

ちなみに,前節で挙げた「時代性」の箇条書きを再度眺めてみると,20世紀初頭に人々が直面した宿命と案外パラレルなんじゃないかと思える部分もある: 古典的戦争の脅威が未だ現役であるという事態は,第一次世界大戦の勃発によく似ている.科学技術の進歩が豊かな文明をもたらすと信じていた欧州の人々は早くも20世紀初頭に科学的知見の軍事利用という事態に価値転倒を余儀なくされ,ダダイズムやシュルレアリスムを生んだ.また,機械生成という表現手段の擡頭は,19世紀半ばでの発明に先鞭をつけられたカメラという技術の擡頭に通じるものがある.カメラ以前の時代の画家は肖像画の制作を生業にできていたが,カメラの登場により大打撃を受けた結果,写実性の追求を至上とする価値基準は大きく転覆させられ,印象派の興隆に繋がる.今日の我々の中からも,もしかするとこうした変化に刺激され全く新しい価値基準自体がまだこれから勃興しうるのかもしれない.

EXPO 2025

2025年の大阪万博はとても華々しいスタートを切っている.あのロゴマークの決定だ.EXPO’70は枠組みこそ「人類の進歩と調和」という進歩主義・モダニズム志向だったところに岡本太郎という反逆者がテーマ展示で大屋根をぶち抜いたものだったが,今度は枠組みからしてベラボー側の系譜なのだとはっきり示されたのは意義深い点だと思う.会期まで2年を切りつつある今から自分が貢献するような余地は全くないと思うが,どんなものが提示されるのか見つめたい.

映画「太陽の塔」

この記事の範疇に多少近い内容を扱った「太陽の塔」(監督: 関根光才,2018年)というドキュメンタリー映画がある.

アジアンドキュメンタリーズで配信されており,購読契約をしなくても単品で手頃に視聴できる:

巧みな映像構成もあって少なくともかなり見応えのある作品で,実際好評な配信作品らしい8が,controversialな要素もあり,おそらく観る者によって反応はさまざまになる.端的に要約すれば「岡本太郎の名を簒奪して一部の出演者たちが左派的なプロパガンダを述べているだけ」といった旨の反応は一定の割合である.たしかに一定程度はそうした指摘通りの側面もあり,やや地に足のつかない飛躍を含む作品に感じられたりもする.また,インタビューに於けるやり取りから,そのように感じ取られるリスクを監督自身が自覚的に取ったことも伺える:

平野 最初ぼくは、ドキュメンタリー映画である以上、監督が太陽の塔や岡本太郎を剥いて裸にしていくものと思っていた。もちろんそういう面もあるけれど、じっさい試写を見たときの印象はまったく逆。裸になったのは、むしろ関根さんのほうです。

関根 (笑)

平野 関根さんの問題意識とか、視座とか、価値観とか、美意識とか、そういうものが生々しく立ち上がっている。

関根 はい。

平野 それがすごくおもしろかったし、それゆえにこの映画は成功だと思った。…(中略)…

関根 この映画は、もちろん太陽の塔の話でもあるし、岡本太郎の話でもあるけれど、それより前に「あなたの話」なんだっていう映画にしたかったんです。

平野 うん、すごくよくわかる。

関根 そういうベクトルでものをつくっていれば、とうぜんながら自分にも返ってくるわけです。自分だけ影に隠れていい話をつくろうなんていうことは……

平野 もちろんできないよね。…(中略)…

…(中略)…

関根 若い人たちがどう感じてくれるか。映画のなかではいろいろ理屈めいたことも出てきますけど、そういう知識の部分をわかってほしいのではなく、最終的にはハートというか、エモーショナルなことをつかんでくれれば、情熱を感じとってくれればそれでいいと思っているんです。

平野 ぼくはこの映画はちゃんと芸術になっていると思う。

関根 ありがとうございます。

平野 ひとつは「挑戦している」こと。従来の定型的なドキュメンタリーの様式と常識に構造レベルで挑戦している。もちろん評価は見た人がどう感じるかで決まるわけだし、厳しい批判が待っているかもしれない。でも、たとえそうだとしても、ルーティンのフォーマットとはちがうことをやろうとした、という一点において価値がある。つくり方そのものが実験になっている。

関根 そうですね。

平野 たんなる努力賞じゃないってことです。きちんと知的な冒険になっている。それは芸術の大きな条件だと思います。もうひとつは「説明じゃない」ということ。この映画がやっているのは、説明ではなく “問いかけ” です。…(以降略)…

–– 『世界をこの眼で見ぬきたい。 岡本太郎と語り合う12人』(編: 平野暁臣,2020) p.142

前提として,私はこの映画が好きだ.上記のインタビューでも触れられているように,ドキュメンタリーとして挑戦的な制作手法は間違いなく唯一無二のものとして結実していると思う.だが同時に,それを差し引いても,かつ鑑賞者の信条の傾向によらずとも,「“問いかけ”」にしてはいささか独善的な温度感を感得せざるを得ないところがあって少し惜しい.太郎も生前はなかなか鋭い批判を展開していたものだが,“押しつけがましさ” はそれほど感じられない.端的な疑問としては,この映画が幾分か生々しく映り,太郎がそうでないとしたら,太郎が,或いは敏子が “巧かった” のは何なのだろう?

それは,端的に言ってしまえば「自身の提示したいものと志向を異にする主張・風潮にも一定の理解を示すこと」なのではないかと思う.大阪万博前後にとりわけ顕著だが,太郎は最後には打開せねばならぬとする対象にも拙速な拒否反応などを示さず,まず「それはそれで大層結構なことだ」という共感と譲歩を見せる.

一般に進歩というと、未来の方向にばかり目を向ける。科学工業力を誇る。たしかにその面での発達は近年ますますすばらしく、生きた人間が月の上を歩いて、また地球にもどって来られる時代である。厖大な生産力は人々の生活水準を高めた。しかしそれが果たして真の生活を充実させ、人間的・精神的な前進を意味しているかどうかということになると、たいへん疑問である。

–– 『日本万国博 建築・造形』(1971)『岡本太郎と太陽の塔』(2018)2

こうした類いの譲歩には,何らかの意味でより良い共同体の構築に貢献したいという他者の内発的使命感を尊重する信頼が滲んでいる.少なくとも “打倒すべき敵” であると規定するような修辞は見られない.“相手に耳を傾けてもらうための打算・処世術” という要素も全くないわけではないかもしれないが,ともかく “君たち,もっとこういう世界観で生きたらもっと全霊に生身の人間として生きられるのに,どうしてそんなせせこましいままでいるんだ” という激励のような父性を湛えている.

“全面的に何らかの敵を設定してこいつらを打ち負かしてやれば解決だ” という具合の政局化した態度は,解決の糸口を結局まるでもたらさない.全方位を信頼し時に挑発的なくらいに激励するような器の大きさが,表現に於ける或る種の成熟としても在るべきなのではないか––そう切に思うし,私はそうありたい.


  1. のちの関係者の証言によると,先に参画していた丹下健三が岡本太郎を実質的に指名したそうだ. ↩︎

  2. 原典が入手できないため孫引きとした. ↩︎ ↩︎ ↩︎

  3. 一方で,必ずしもこんなわかりやすく “体を張った” 様相のものばかりでもない.自己紹介もせず話し始めたのをツッコまれたら「名前なんてあるから存在そのものを見られずに卑しくなっている,名前なんて実は無い方がいいのだ」という旨のことを言い始めたりするものもある.太郎のバックグラウンドを多少知っていれば(なんだ,全く真摯ないつもの岡本太郎じゃないか)とも見える.とはいえ文脈を共有していない人間が聞けば “予測不能なおじさん” ではある. ↩︎

  4. 後述する1953年出版の『青春ピカソ』にも「老齢のピカソは自らが権威と化して挑むべき権威を失い創造も芸当的になってしまった」という旨の悲嘆めいた主張があり,自らが権威化してしまった事態について万博以後の太郎が相当に深刻に捉えたであろうことが推し測れるのではないかと思う. ↩︎

  5. 太郎がピカソにアトリエで会い会話を交わした経験なども添えられており,伝記としても意義のあるものだ. ↩︎

  6. こうした価値観は,意思疎通が知的生産に於けるボトルネックとなりやすい,という経済の力学で要請されていたりもするだろう. ↩︎

  7. とはいえ,作品を実物大で見るとやはり圧倒されたりもするものだ. ↩︎

  8. https://twitter.com/asiandocs_tokyo/status/1364991675374784512 ↩︎